画像の粘土は、しばらく前のバイオグラフィーワークのクラスで作ったものです。
僕が落ち葉そうじをしているところです。
この時期、毎日、朝と晩に自宅周辺の落ち葉そうじをしていました。
これを作って思ったのは、人生のある時期を象徴するような出来事は、必ずしも、特別な意図や個人の創造性に基づくものだけではない、ということです。
簡単に言えば、素晴らしいことばかりが人生を象徴しているわけではない、ということです。
ちょっとした偶然や、気の進まない出来事、やな事、なんとなく行って些細なこと。
そんなことも、その時期を象徴する出来事になり得る、というわけです。
この粘土の場面は、かつて僕が、12年間を過ごした神奈川県旧藤野町の自宅周囲での一場面です。
引越し早々に、自宅周辺の落ち葉そうじをやらなければならないことが発覚し、気が進まないままやり始めました。結局、ほぼ朝晩、12年間、落ち葉そうじをやり続けることになりました。
藤野から引っ越した今、当時を振り返ると、「落ち葉そうじ」は、たしかに印象的な出来事ではありましたが、だからと言って、12年間の良い思い出のひとつ、というわけでもありません。
むしろ面倒で、やりたくなかったです。
落ち葉といえば普通は秋冬ですが、
実際には、春夏は笹と竹、秋冬はさまざまな広葉樹、嵐のあとはあちこちに散乱する枝葉、大枝、すごかったです。
ただ、あらためて思いを巡らすと、「落ち葉そうじ」そのものは、必ずしも嫌いなものではありません。むしろ好きかもです。きれいになった敷地や道路は気持ちの良いものです。
たぶん、自分のこだわりが、楽しむ気持ちにブレーキをかけていたのかもしれません。
そういう意味では、神様から「落ち葉そうじくらいが、君にとってはちょうど良いかもよ」という配慮だったかもしれません。