老いの恩恵 その10

老いの恩恵 その9 notebooks801
目次

注意深さと終わりが見えたこと

身についた注意深さ

ぽつりぽつりと、書き進めた「老いの恩恵」シリーズも10回目なので、そろそろ一区切りかな、と思っています。そして、改めて「老いの恩恵」とは何だろうか? と問いかけてみました。

再確認ですが、「老いの恩恵」とは、歳をとったことのメリットです。少し言葉を足せば、歳をとったことで、より自分らしくなるのでは? そして「老い」はそのチャンスではないか、という視点に立っています。

最近、実感していることのひとつが「注意深さ」です。いろいろなことに注意を向けて、気をつけるようになりました。例えば気をつけていることは次のようなことです。

  • 忘れる、ということを前提に行動する メモとインデックスが大切。
  • 早く作業を進めすぎない。やったことを忘れてしまうから。
  • 即断即決はしない。
  • 理解できないことはやらない。
  • 我を忘れるような場所には行かない。

書いていて、思わず笑ってしまったのですが、僕にとってはかなり実際的で、大切なことです。

なぜ、「注意深さ」が「老いの恩恵」なのかというと、「注意深さ」の土台には歳をとった分だけの経験があるからです。

しかも、過去の経験の中には上手くいったこともあれば、いかなかったこともあります。そんな過去の出来事について、ようやく結果の良し悪しからは距離を置いて、経験を平らに見ることができるようになった、ということです。

ドイツの思想家であるルドルフ・シュタイナーは、出来事の意味を理解するのには最低7年はかかる、さらにそれを消化し、自分のものとするにはさらに7年、またさらに7年が必要である、というようなことを述べたそうです。結局、過去のひとつの出来事を理解し、自分のものとするには21年かかるということです。

確かに昔の出来事も、その直後であれば損得勘定や、感情のアップダウンに押し流されてしまいますが、ある程度の時間を経て、さらにその後の人生のあり方、なども含めて、客観的に振り返ると、直後には見えなかったものも見えてきます。そのときに理解できなかった意味も明らかになってきます。

ぼんやり生きてきたように思えても、自分の過去には、実はいろいろなものが埋もれていて、見過ごされている、ということがあります。バイオグラフィーワークで、過去の1場面を描くときに、なるべく具体的に、詳細に、と言われているのは、見過ごされているものに気づくための工夫なのでしょう。

終わりが見えたこと

ちょっと長くなってしまいましたが、「老いの恩恵」もひと区切りなので、あとひとつ、少しだけ取り上げます。これは以前にも取り上げたことです。

それは「終わりが見えたこと」です。もうどう考えても、今まで生きてきた以上の年月を過ごすことはないだろうし、最近は60代、70代でも亡くなる方が多いので、そんなニュースを聞くと、僕もあと何年かなーなんて思います。

そういう意味では、タンスの靴下を眺めて、もう一生靴下を買わなくてもいいかも…なんて思うことや、人生設計もより具体的になり、何をすれば良いのかなど、ある程度の目処をつけることができるので楽です。

若いときにように、果てしない(と感じていた)未来のために、そしてさまざまな可能性のために、あれもこれもと考え、行動する必要もなくなりました。実際、いろいろなことがわかりやすくなって、よかったです。これも「老いの恩恵」です。

ここから本気で

冒頭に申し上げましたが「老いの恩恵」とタイトルしたブログのシリーズも一区切りです。でも、まだ生きているし、これからもどんどん歳をとるので、いったいどんなことになるのだろうか、と楽しみです。「老いの恩恵」では、恩恵〜などと言って、いろいろと生意気なことも言ったので、果たして自分は、そのように歳をとることができるのか、と思います。

まだ多少は体力も気力もありますが、本格的に体力も気力も落ちたときに、どうなるのかなーと思います。つまり、ここからは本気で生きていこう、と思います。

あと、もうひとつ楽しみなのは、自分の体がどんどんと「物質化」していることです。生命力が引き潮のように、引きはじめました。そのためか、これまでは自分の「生命(元気のよさ)」によって覆い隠されていた何かを、なんとなく感じ始めました。これまで見えるものの背後にあったものを、少しずつ実感し始めたということです。このことについてはまたいつか書きたいと思います。

ありがとうございました。

  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次